杏果推し失格

ももかがブログを更新しました。この文字列にはいつもボルテージをMAXにさせられるが、3月15日に見ると更に格別だ。光の速さで充電所に飛び込む。

「9年前にもらったプレゼントをこれからも」

なんのことだろう。物凄くドキドキしながら読み進めた。

有安杏果はね」

その先を読んで・・・視界がぼやけた。

そして、
霧が晴れた。


昨日一日中杏果のことを考えていた。杏果の歌を聴いていた。生誕ツイートを眺めたり、とりとめもなく呟いたり。今年は会うことは出来なかったけれど、楽しくのんびり生誕祭を過ごした。
でもどうしてか、常に違和感があった。
杏果ってこういう人だったっけ。私は杏果のことをこういう風に思っていたっけ。前はもっと違った気がする。なんだろう。なんでだろう。
確かに「好き」という気持ちはあるのだけれど、こんな風な「好き」だったっけ。生誕ツイートとはいうけれど、昔の私はこんなことを書いていたっけ。
ぼんやりと、けれどもはっきりとおかしさを感じていた。


有安杏果はね」

杏果は、そんな私に答えを届けてくれた。

9年前の喉の手術。声。夢。奇跡。

涙が溢れると同時に、ハッとした。

私は今日一度でも9年前の手術のことを思い出しただろうか。
それだけじゃない。杏果が数多の苦労の末にももクロに入り、屈辱を受けても努力の末に認められ、それから幾度も壁を壊した末に今があるということ。

なんてこった。
すっかり忘れていたじゃないか。

私が昨日、というかここしばらく抱いていた杏果への思いはざっくりこうだ。
杏果は好きなことを尋常ではない程頑張っていて、その姿はとてもイキイキしている。私はそんな杏果の生き様に憧憬を抱き、そんな杏果の歌声に心酔している。とはいえタワレコで私服の杏果を見た時思ったように杏果は私と同じ人間で、だから崇拝や信仰の対象というよりは尊敬できる仲間という感じ。いつだって無条件に大好きだし愛してる。これからも杏果と一緒に歩んでいきたい。

それな。確かにそうだ。それは今も嘘じゃない。でもそれでは違和感があってもやもやしていたのだ。
やっと分かった。
抜けていたんだ。
杏果がどれだけの苦難の果てにそこにいるのかということを、全然意識していなかった。
最近の杏果はソロコンも決まって絶好調で楽しそうだしかっこよすぎるから、その印象ばかりに目を向けていた。
夢を叶えていく杏果の笑顔も、私の心を世界一掴んでくれる歌唱も、当たり前のように受け入れていた。
今の杏果の中にも決して消えることなく在り続ける過去の軌跡。それら全てに対する感謝が、抜けていたんだ。

杏果を好きになりたての頃、彼女の長い努力の歴史に惹かれていたし、そこに感謝の念があった。あの感覚こそが私の杏果推しとしての根幹だった。好きになった理由と言い換えてもいい。
要は今の杏果を尊敬しすぎて、過去の杏果を忘れ、根幹を見失っていた。それはそれで杏果の進化が凄い証拠としてはいいのかもしれない。でも私自身はダメだ。だって、
今の杏果と未来の杏果のことばかり称えて背中を追うけれど、杏果がここにいてくれることに対する感謝を忘れているのでは、もうなんというか、失格じゃないか。

杏果の声が出ること。
杏果が人前で歌えること。
杏果が夢を叶えていくこと。
杏果はそれを「奇跡」と書いた。杏果が大切にしている「奇跡」という言葉を使う価値があるからこそそう書くのだろう。
決してそれを「当然」として流すようなことはしない。杏果の中には幼い頃の杏果が、今までの杏果がちゃんといる。

なのに私は・・・
噛みしめていただろうか。「奇跡」を。お誕生日だからこそ噛みしめるはずなんじゃないのか。
杏果の好きなところといえばそういう面を必ず挙げていたのに、今まではちゃんと感謝していたのに。こんなの、杏果に出会ってからの4年半で初めてだ。
いつの間にか、私の杏果に対する「好き」の中で絶対に忘れてはいけないはずのものが抜け落ちていたのだ。そりゃあ違和感があるはずだ。

手術をしてあの声を手に入れてくれた杏果、子役時代やEXPG時代に悔しい思いも沢山した杏果、やっと入ったグループの解散を誕生日に告げられた杏果、ももクロに入ったことを散々非難された杏果、それでも必死で努力して認められた杏果、アイドル活動の傍ら勉強もきちんとしていた杏果、米子の夜に脱皮を決意した杏果、歌えない喋れない数か月を乗り越えた杏果、リスクを恐れず扁桃腺を切った杏果・・・
全ての杏果にありがとう。
私が今杏果の歌を好きなだけ聴いて好きなだけ杏果を尊敬することが出来るのは、今までの杏果がたくさんのことを乗り越えてきてくれたおかげだ。
当たり前じゃない。ありがとう。

そんなことも見失っていた昨日までの私は本当に恥ずかしいし信じられない。
杏果、ありがとう。ももパワーで霧が晴れたよ。

杏果がどれだけ進化しても変わらない部分が必ずあるように、私にも杏果推しとして変わってはいけない部分があるのだ。
泣きながら積み上げてきた過去こそが今の杏果に繋がっている。杏果がここにいてくれることはなによりも感謝すべき奇跡なのだ。その気持ちをなくしてはならない。
ありがとうが欠けたら何も始まらない。称賛や尊敬だけでは何もプレゼントできない。
だからもう絶対に見失ったりしない。

杏果が勝ち取ってくれた奇跡を軽んじたりしない。

これからは、ありがとうを目一杯伝えようと思う。
21年間の杏果の全てを含んだ、21歳の杏果に。