杏果

杏果が辛い時、私も辛い。
杏果が悔しい時、私も悔しい。
杏果が怒っている時、私も怒りを鎮められない。杏果が泣いている時、私の涙も止まらない。杏果がなにか苦しんでいるのなら、なにも知らされなくたってその苦しみを想像してしまう。

そうやって杏果の心を間近に感じてきた。
感じようとしてきた。感じたつもりでもいいから感じていたかった。
喜・楽だけでなく。怒・哀にも限らず。

だって私はちっとも嫌じゃないんだ。杏果を応援する中で、笑顔になれない瞬間が。不安に駆られる心地が。
ちっとも嫌じゃないどころか、そういう局面でこそ嬉しくなってしまう。

確かに元気な杏果、笑顔の杏果を見ることは私の幸せだ。幸せな今日を送る杏果を想えばそれだけで幸せだ。
でも私は、ときどき理不尽な目に遭ったり、病に道を阻まれたり、挫折や失敗を噛み締めたり、恥をかいたり、後悔している杏果を見るのも正直言って幸せなんだ。

別に杏果が常に心配だとか、杏果には弱い人間でいてほしいだとか、ファンが支えるべき庇護対象で在ってほしいだとか、そういう風には思えなくて、ただ杏果が杏果としてなにかに躓くことを、紛れも無い杏果の魂が揺れることを、どこかゾクゾクとした喜びをもって受け入れてしまうんだ。
杏果が本気で生きる中で私達に見せる全て、杏果の身に起こること全てを、杏果への愛を深める理由として受け取ってしまうんだ。

どうにもこうにも、杏果の「不運さ」や「コンプレックス」や「弱さ」、「闇」なんかを見つけてしまうと、それごと愛しくてたまらなくなってしまう。
どんな杏果は好きで、どんな杏果は好きじゃない、どんな状況なら歓迎して、どんな状況なら拒絶する。そういうことではなくて、杏果の中にあるもの、杏果を取り巻く現象全てをまるごと愛してる。
杏果が杏果であること、それが全てを引っ繰り返すほどの価値なんだ。感情をどの方向に振り動かされても、結局「好きだな」としみじみ思える。だから杏果を見つめる間いつも幸せだ。

私は既に揺らぐことのない「有安杏果」ファンで、「有安杏果の人生」オタクだ。
杏果が生きていてくれればもうなんだって嬉しい。今生きている杏果を感じられるのなら、なんだって嬉しい。心を知ること、心に触れることが嬉しい。苦しい心に共感することも、それが杏果の心であるというだけで喜びに変わってしまうんだ。

芸能人である杏果を、出来るだけ生身の人間として好きになりたい。こんな理不尽な欲望まで背負わせてしまうようで申し訳ないが、杏果はただ杏果らしく好きなことを頑張っていてくれればいい。
これからも色々なことが起こるだろうけれど、私はその度に杏果をもっと好きになるだけだ。